10  肆 草薙の鉈

甘い香り・・・大地から立ち上る草いきれに混ざり————


      *     *     *



 それはほとんど空中戦だった。


「気が付いたか・・・ま、待て!どこへ行く!」


 ただ必死だった。

 後に思えば彼は女の膝の上で介抱されていたに過ぎない。ただ・・・女の刺すような目線とその背中に挿した長具足。その時の銀次には「やはり夢ではなかった」だのと考える暇(いとま)もない。


 卒倒した時に肘でも打ったか痛みが走る。しかし思いのほか体は軽く矢のように草叢(くさむら)を駆け抜けた。

 再び通りに躍り出る。否やいきなり車にぶつかりそうになりすんでのところで身を翻(ひるがえ)し、それを躱(かわ)して飛び退いた。ボンネット型のトラック行き交うその道は車に限らず大八車などを引く者もいてまるで隔てというものが無い。


「あやつ・・見ちゃおれん」

「待てや姉者!」


 よく見るとオート三輪のその車には溢れんばかりの丸太が積まれ、自らもそれに隠れるように方向を変えてまた走る。

 敵も然る者慣れているのか銀次よりは遥かに速く、トラックを挟んで並走し反対側から何事かを叫んでいる。


「わかっておろうな、人には見えねど当たれば死ぬぞよ!」


『————?さっき正面衝突しかけたことを言っているんだろうか、しかし何故・・・』


 左手にサイロ型の円錐形が見えて来た。やはりそうだ、ここは————


 それは今でも廃墟となって残るあの焙焼炉の生きた姿だった。

 真新しくも既に黒いズリを被った炉が—— 銀次の記憶とは異なるそれは今では二十基近くが横一列に並びもくもくと黒い煙を吐き出している。


『稼働している———————』


 今でこそ問題の多いこの噎せ返る程の汚れた空気、それは銀次の時代にも記憶になかった。なのに今、黒いロケット達は整然と起ち並び、その雄姿とも言える姿で石崎川を睥睨(へいげい)し威圧的な迫力を持って迫り来ようとしていた。


「ええい、面倒な」

「姉者抜くか!何もそこまで」

「心配するな、柄(つか)当てじゃ」


 銀次は焙焼炉の醸し出す豪気に見惚れていたか怯(ひる)んだか、次の瞬間驚くべきものを視界の中に垣間見た。それはどの道を追って来たものか、もう一人の女が炉を飛び越える姿だった。

 あの少女——— 妹に至っては完全に宙を舞っていた。


「姉者———!」

「然らば御免————」

 ドサッ・・・————


 銀次はみぞおちに鈍いものを感じるやその場に崩れ落ちた。意識が遠のくその間際、視線の先の女の手には背中にあった長物を見た。

 柄当てとは言え背中からでは抜刀するより他にない。


     *     *     *


「しっかりせい、気を失うほどの事はしちょらん」

「ぐ・・・・こ、呼吸・・・・」

「わかっておる。息が出来んのじゃろう・・・わしは寝るなと言うておるのじゃ。しかし重いのぉ、お主は————」


 車に轢かれたのでは元も子もないと銀次の身体は無造作に河原へ引きずられ、そして殊更厄介であるがごとくに投げ出された。銀次は呼吸が戻るまでの僅かな時間、川面が見える草原の中で姉妹の会話を聞いていた。


「何故助けよった姉い————」

「主が兄者と言うからではないか————」

「姉者が先に気付きよった」

「それは見るからに阿呆っぽい・・・・一体何が言いたい錫乎」

『ピールル————ピピピ・・・』


「あ・・あの時の囀り・・・」

「おお、大丈夫かや兄者」


 敵ではないらしい。だがまだ一分一厘だって理解などしていない。


「————な・・何故斬らなかった」

「斬るとは何事じゃ」

「その刀・・・・」

「これか・・・これが刀に見えるか?」

 平たくごつい。暫く研がれてすらいない。


「鉈じゃ」

「ナタ?」

「草薙(くさなぎ)の鉈じゃが」

「ああ————そうか鉈か」

「そうじゃ。木の枝を掃ったり色々重宝しよる」

『ピル―・・・』


「あ・・・あはは・・・・そうか草薙の鉈か!あはははは」

「そうじゃ兄者、鉈じゃ。あははは」

「だ、大丈夫か?どこか打ったかの・・・・これ錫乎まで————」

 込み上げる笑いが止まらなかった。そして次には涙が溢れ頬を伝った————


「帰りたかろう・・・のう・・・よしよし」

「————すまん。ちょっと疲れ・た・・・・・」


 いつしか銀次は女の胸に抱かれ、むせび泣いていた。そしてまた・・



 甘い香り・・・大地から立ち上る草いきれに混ざり————

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