04 六月の神田川
ズガガガガ———
カチャッ・・・
「すいません。うるさいっしょ」
「あ、いや・・ご苦労様です」
ホントうるせーわ。これじゃ仕事にならん。
あれ以来、銀次の家の前では単なる補修ではなく大規模な改修工事が行われていた。一区画とは言え解体と増築とが一度に行われているに等しく騒音は急ピッチもあってか新築より酷い。
「あの、もし帰りが遅いようでしたら・・・」
「わかってます。その時はいつも通りで」
警備員は銀次からうやうやしく鍵を受け取りながら言った。
「これがなくても平気なのはわかるんですが万が一って事もあるし」
そう言いながら銀次の為に足場を一枚渡し、彼の代わりに慣れた手つきで玄関の鍵を閉めた。
一体どこの立場で言っているのか、警備会社か施工会社かそれともオーナーサイドだろうか。とにかく全く意味のない体裁の持ち様で、もしも彼らが引き揚げた後に帰宅しその際足を踏み外したとしても少なくとも警備員のせいではない。だから
「帰りが遅いようでしたら」
の意味は
「そこに立て掛けてある足場板ちゃんと使って下さいね(使ってる事にしてくださいね)」
であり
「その時はいつも通りで」
の意味は
「適当にやっときます(はい、使ってる事にします)」
だ。
* * *
こうして見ると六月の神田川は特に何もない。しかし人々がやれ桜だ葉桜だと言って妙に浮かれる季節が過ぎさり、六月に限らずお天道様だけが良し悪しを左右するそんな当たり前の日常や、たかが雨によって憂いを見出す瞬間にこそ彼は美意識が働く。
だが川底でその肌をあらわにしている湿ったコンクリート壁に雅を感じているようではやはり俺はただのひねくれ者かとそんな事を考えながら銀次は歩き続けた。
そもそもこの辺りには何軒かの行きつけを除きこれといって歩いて川面を望める場所は無かった。
ところで銀次が試行錯誤の果てに獲得した現在の生業は「今何か出来ることをする人」だ。
未だ何に使えるのかわからないが一応国家資格であるITパスポートとか、ちょっと齧った程度のウェブ構築のスキル、一事業所に一人は必要ながら外注などはあり得ない運送業界の運行管理者資格、3年に一度ぐらいの頻度で知人に頼まれ仕方なくこなす電気工事などその守備範囲は無駄に多様で豊富だった。
そういえば器用貧乏なんて言葉があったけど意味としては言葉通りといえよう。とは言えそれを節操がないとか無秩序とかそんな風には思っていない。単純に必死で生きてきた結果がこうだった。そのためどんなに省略しても最低二枚にはなってしまう名刺の裏表には様々な事が書かれてあったが、その名刺も乞われれば渡すために持ち歩いているだけでそれで営業をしたりはしない。
仕事というのは人と人との繋がりであって向こうからやって来るものだという事を割と若い頃から知っている。
言い換えれば(今風に言えば)非正規雇用・・・まてよ雇用もされていないわけだが逆にしげしげと名刺の裏表を眺めた客からは
「へ~そんなことも出来るんですか。じゃあ今度お願いしようかな」
と更なる仕事に結びつく事だってある。
そもそも ———飽くまでも独り身が前提だが人間生きるのに金はそんなに必要じゃない。
そんなわけで今彼がやっているのはある塗装店の五年分を遡った帳簿付けだ。「法人なり」と言うらしいが息子が会社を設立する形で親の家業を継ぐんだとか。だから今回必要なスキルはなんとエクセル。ラウンドアップ関数とか久しぶりだったがそんな事よりも一体いつの間にこんなことまで知っているんだろうと銀次は自分で不思議に思った。
何一つとして教わってこうなったという覚えがないのだ。
銀次は今日はモバイルなど持たずにほとんど手ぶらで外出していた。今の仕事は紙媒体しか無いからやっている事であり所謂データ化だ。最初はそう思った。
だが実際には法人化の手続き上清書が必要らしく結局税理士に言われたからという理由らしい。因みに出来上がったデータはやっぱり紙で欲しいそうだが・・・。
とにかく紙の山を持ち歩いてまで外ですることではないと初夏の日差しを浴びて散策を続けた。
銀次が今歩いているこの御茶ノ水界隈は一部の好立地に建つ店舗を除き間近に川が臨める場所は意外と少ない。この神田川に最寄りの施設と言えば公衆便所だったりするがそれでも、つまり見えなくともそこに川があるというのは風情が違うもので時折昔ながらの江戸らしさが顔を出すような気がするものだ。
銀次は通いなれた大学病院の前を右に折れ、孔子廟として有名な聖堂の瓦が見える公園で足を止めた。そして植樹された木を飾るように囲うレンガブロックの上に腰を下ろして考えた。
今やっている塗装店の帳簿付けだがここの顧客に中堅クラスの不動産会社がある。マンション・アパート経営であったがそこのシリーズ化されたかのような物件名が一々可笑しい。
例えばこんな感じだ。
アルビシオン東十条 明鏡止水
アルビシオン亀戸 一蓮托生
デラコスタ深川 百花繚乱
デラコスタ深川 一期一会
本当にこれでいいんだろうか。そう思い塗装店へ問い合わせたところ、なんでもオーナーが三国志をはじめとする中国史マニアで表向きには一号棟二号棟だが登記上の正式名称には四字熟語も加わるのだそうな。なるほど四字熟語というのは本来中国大陸からの流入だ。
一応意味は通るというかアパート名に風林火山や阿鼻叫喚などと言った名を付けないだけの分別はあるらしい。だとすると東十条と亀戸の物件は寺でも近いのか・・とか、深川は余程風光明媚で贅を尽くした高級マンションなんだろうな、などと半ば吹き出しつつもイメージを膨らませてしまう。寧ろアルビシオンの方が問題だ。
そんな中に銀次の知らない言葉が二つ三つ並んで書かれていた。
露往霜来・雲壌月鼈・往古来今———
この帳簿となる領収書のコピーにはあちらこちらに手書きのメモがあり、時にそれは塗装店と顧客との電話でのやり取りがそのまま窺えた。だがその一枚に関してはどうやらオーナー側から届いたファックスの転用であり大方新しい物件名でも思案中だったのだろう。
どんな意味かと興味をそそられたが何れそういう事なら出典としては孫子の兵法あたりだろう。仕事としては完全に寄り道だが帰ったら早速調べようなどと腰かけたブロックから重い腰を上げた。
あと一時間もすれば工事の連中も撤収の時間だしモニター画面によって疲弊した目にはちょうどいい時間を過ごせたかもしれない。
* * *
銀次が戻ると桃華マンションではちょっとした騒ぎになっていた。なんでも搬入業者が部材を運ぶ際、鋼材か何かを三〇一号室のドアノブへぶつけて破壊したらしい。
お陰で例のジジイ ————管理人の爺さんが駆けつけて興奮気味に何かを指示していたが余程興奮しているのかもう何語か分からなかった。
お住まい中の近隣への配慮でいつも四時半には騒音は止み五時には撤収が完了する。しかし今日は「この度の件」の謝罪と注意事項を伝えに現場監督が各戸を回り銀次のところへもやって来た。しかしあの四字熟語の事などすっかり忘れて丁度仕事が佳境に入りつつあった彼は話半分に生返事で答えてやり過ごしただけだった。
「そう言えば・・・」
夕飯を済ませその片づけを終えた彼ははたと思い出し現場監督が伝えたことを、一体何がどうなっていたかを反芻しようとした。だが見るが早いと結局はサンダルを履いて外へ出て来た。
外壁をぐるりと囲むように組まれた足場によって辺りは暗い。
それ故普段なら周囲の明るさによって気付くことは無かったが彼はここにもちゃんと通路灯ぐらいはあったということに今更ながら気が付いた。
ギシッ・・・
あの警備員は帰り際、いつも銀次の為に足場板を一枚予め渡しておいてくれた。
普段は邪魔なこの板も足場が組まれた暗がりの中で今ばかりは慎重にそれを踏みしめた。
見ると階段より向こう側、今日ドアノブが破壊された三〇一号室の手前にはカラーコーンが置かれ規制線を示すトラロープならぬトラテープが貼られているようだ。
「そういえば言ってたな。今日の今日ではどうにもならないので・・とかなんとか」
通路灯がおそらく球切れだろうか明滅を繰り返している。そのせいか判然としないが三〇一号室の内部が薄ぼんやりと明るい。銀次はほとんど反射的無意識さで歩を進めた。
破壊され鍵のかからなくなった扉にはまるで見るな入るな近づくなといった厳重さで目地がされていた。その目地用のガムテープが熱と湿気によって完全に浮いている。
「何者か不審者でも侵入したのでは・・・」
そんなセリフが一瞬彼の頭を過ったが単純に好奇心に突き動かされていることを悟ってもいる。以前からあの部屋三〇一号室には興味があったのだ。
その彼自身が不審者と化した今、銀次は音をたてぬよう慎重に扉を開いた。
「ん?・・・あ、そういえば」
そういえば入居時に聞かされていたかもしれない。この棟はもともと一階に入口のある三階建てでこの部屋の入り口は後に賃貸し用に拵えた・・・だから間取りも違うとか。夢の中ではこの部屋も玄関を入るとすぐ台所で左手には流しがあった。だが実際には壁をぶち抜いて無理やり扉が取り付けられてあり勝手口のつもりだったのかなと思われた。
薬品棚だろうか細かな棚が作りつけられ今もいくつかの小瓶が荒らされる事なく放置されている。
診療所の物品庫——— そんな風に銀次は推理した。
彼がお邪魔しますと口の中で小さく呟き一歩前に進み出た時、背後の扉が音もなく閉まるのを感じた。だが彼は
「寧ろ閉めるべきだな」
と背後に目をやり、そして再び前を向いた。
だがその瞬間から先ほど見た部屋の景色は急速に影を潜め、完全に闇と化すより一瞬早く彼の視界の片隅で夢で見たあの写真 ————天井から下がる梁に貼られたあの写真が彼の瞼に焼き付いた。
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