03 鳶の笛
外神田へ越して来て初めの頃の事————
銀次はいつも通り玄関前の通路に設置してある洗濯機を回していた。するとその日はどこからか矢鱈とビシャビシャ音がする。最近どうやら脱水が始まると聞こえだす。
排水は正しく溝を通って雨樋状の筒へ流れ込んでいる。
「おっかしいな・・・」
そのはずなのにと不思議に思い身を乗り出してみた。すると建物側面から階下へ向けて盛大に水が噴き出しているじゃないか。銀次はジジイを呼び事情を説明した。
ジジイというのは彼が管理会社へ連絡をすると決まって現れる世話人——— 一応管理人さんと呼んでいるが ———の事だ。
どうやら台湾からの帰化であるらしいこの爺さんはくせ者と言うかひょうきんと言うか、ケチだと誰かに聞かされた事はあるが何を考えているのかさっぱり分からない。
「ワタシちょっと見て来る」
そう言うとジジイは階下へ降りて行き下から建物全体そして問題の外壁を見渡し、間もなく戻ってきた彼は顔を紅潮させ嬉しそうにこう言った。
「建物にヒビ入ってるね。アナタ端っこ歩かない、崩れたら危ないヨ」
一体何がそんなに可笑しいんだ?大ごとじゃねえか・・・。
ジジイは補修工事を約束してくれたが明日から二、三日は雨が降りが続く。ジジイが修繕の為に問い合わせたところ業者が言うには躯体が乾かないと左官は出来ないという事らしい。
ミシッ・・・
確かに端っこ危ねえな。でもこれじゃあ補修で済まないんじゃ・・・。
暫くは天候に左右され待たされはしたが、補修の左官工事も漸く終わり銀次は再び洗濯をしていた。
斜向かいには路地を隔てて小さいながらも瀟洒なマンションが建ち並び、銀次が住むこのボロアパートとは直角に面している。町の条例なのか一歩大通りを中へ入ると高い建物は無く、本当にここは千代田区なんだろうかといつも思う。
ピールルー・・・
「麗かや松を離るる鳶の笛・・・なんてな」
————え?
洗濯槽を覗き込んでいた彼は咄嗟に顔を上げた。最近時折耳にするあれだ。あの鳥の囀りの様なあれ。
彼はいつもそれが部屋の中から聞こえるような気がしていた。でもそんなはずはなくたぶん鳥だろうと、中でもシジュウカラだろうと勝手にそう思っていた。どうせ他には知らないからだったが・・・。
そんなわけで遂にあのシジュウカラとご対面かとそう思い、勢い勇んで声のする方を見渡した彼だったが
「どうも逆じゃなかったか?」
路地を隔てたあちら側ではなくこちら側——— やはり自分の部屋から聞こえたような・・・。
そう思い振り返った銀次が目にしたのは意外なものだった。
「人間・・じゃないか」
銀次がシジュウカラだと思い込んでいたものは意に反して人の形をしていた。というよりまるで人の子が歌うように囀っている。
「ピールルー・・・」
日本髪を結い、着物を着て、淡い色の花のような姿で。
そして彼女は初め眩い白さの中に混濁し、そしてやがて透過していった。
それは——— 彼女はほとんどホログラムと言ってよかった。
けれどもその光景はその時の銀次にぎょっとしたとか妙なものを目にしたという感じはまるで与えず、彼は少女の髪とその瞳の白銀のような色合いにただ目を奪われていた。
銀次にはこれまでにここへ越してきてから起こった様々な事が取り留めもなく感じられ、そしてそれらは彼の頭の中で思考の順序さえわきまえることなく駆け巡ってきた。
しかしそれらは考えても無駄なこと、特に万華鏡の事となるとまるで頭に靄でもかかったようになりそれが彼が彼の生活に大きく舵を切った本当の理由、病のせいなのかさえ解らずにいた。
彼は病院に行かなければならなかった。
縮みゆく脳——— そして夜に聞こえる頭からの爆音————
銀次が天秤にかけた山奥での生活と、こうして生活の規模を縮小させてでも都心に残る事とは初めから選択の余地は無かった。
会社をやめ療養をしながら小さく生きる・・・。
今、あの紅い柄模様の万華鏡を手にして三〇一号室の前に佇む彼女のホログラムが消えていこうとする中で、銀次の鬱屈とした頭も少しずつ事態の収拾に繋がりを見せ始めている。
そして、ゆっくりとだが一つの結論を見出す。
夢で見た三〇一号室の写真とそこに映り込む彼女————
手にした万華鏡を覗き込む彼女の瞳————
いつか見たフィルム映像に映る二人組————
それは理解と言うには程遠いことではあった。だが絡まった糸がほつれるようにこんがらかった銀次の頭には合点がいった。そして
少女が完全に消えようかとするそのとき、彼の瞼に焼き付いた少女の残像が言った。
そこ危ない————
「え?」
他には誰もいない、まるで切り取られた絵画のような空間で、なぜだか今は町の喧噪さえも止んでしまったかのような静寂の中、あの透き通る少女が今改めてそこへ留まりまっすぐこちらを見ている。
「えっ??」
彼は半ばすがる思いで忙しなく視線を泳がせた。今ではもう彼女の表情がわからない。
兄者そこ危ない・・もそっとこっちじゃ————
その時銀次は少女の口の動きを見た。言葉は明らかに彼女が発していた。
「あ、兄・・・?」
そう言いながら彼は一歩前へ踏み出した。
次の瞬間、大きな揺れとともにゴトンという鈍い音を立てて銀次の背後は崩れ去り、管理人の言う端っこは二階の通路部分へ落下した。それはその重さが故に転がるでもなく二階の同じ場所でビッタリと静止した。
そして落下を免れた部分の躯体の撓んだ手摺の湾曲が、落下し拉げたコンクリートとの関係を今となっては意味もなく保っていた。
この日銀次は唖然とし、まるで阿呆の様に口を開けたままで右手の三〇一号室と左手の空虚な穴とを何度も振り返って見ていた。
やがて辛うじて一命を取り留めた洗濯機を再び回し始めたが、洗濯機の下から延びる排水管が今では直に二階を向いているのに気がついて慌てて洗濯槽が回るのを止めその日の洗濯を断念したし、そもそも洗濯をしている場合ではなかった。
つい今しがた、銀次の目の前で玄関前の通路が崩れ落ちたというのに、彼の頭の中は今、完全に「兄者」という言葉に支配されていた。
ついには彼は清々しい音色で口笛を吹きはじめ・・・
ピールルー・・・
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