青い宝石 2
その彼とは東南アジアの片隅で出会った。その町、マニラのゲストハウスのことは今でも美しい思い出のひとつだ。
経営者である親に代わって夏の間だけ宿を切り盛りする女学生がいた。そしてそこは彼女の友人たちの溜まり場となっていた。
「ねえ、あの人日本人でしょう?助けてあげて」
見ると宿に面した路地の向こうから一人の東洋人が歩いてくる。夏だというのにコートを着て周囲にはいわゆる「たかり」の人間たちを従えていた。
「ほっとけよ、あんなバカっぽい奴」
「同じ日本人でしょ?助けてあげて」
実は私自身彼女たちに助けられたという経緯があった。
最初の頃は唯一の情報源であった現地のおっさんたちと終始行動を共にしていたが私には彼らが「たかり」の類であるという認識だってちゃんとあった。しかし彼女たちはその関係を許さず勝手に追い払ってしまったのだ。
「あんな人たちと付き合っていてはだめ」
「わかってるよ」
女性たちに煽られるように私は仕方なくそのコート姿に声をかけた。
「お前今日ここに泊まれ」
彼に群がっていたおばさんたちは宗教関係を装った輩だった。私は彼女たちを追い払いそしてどんな状況にあるのかを彼に説明し、半ば強制的にそのゲストハウスへチェックインさせた。
後に彼が言うには私の方がはるかに怪しく見えたそうだ。
「タガログ語を自在に操り・・」
タガログ語なんか話していない。英語だ英語!
その彼とは帰国後も交流が続いたがやはり何かが無理だった。本来であれば青春時代の一ページを飾るにふさわしい、或いは彼は生涯を通じて貴重な友人になるはずだった。それでもあの頃の私にはすべてに於いて拒絶心しか持てなかった。
人間関係というものはギブアンドテイクなんだろうと思う。何かを与え何かをもらう。どちらかが寂しいとかつらいとか悩みを抱えている時に相手の存在を求める。そしてその次はこちらの番だ。しかし私には寂しさというものがよくわからない。誰かに話を聞いて欲しいとさえ思ったことがない。人に愚痴る事はあっても何かを解決してほしいとは思わない。そもそも個人の問題なんだしそんなことは出来っこないのだから。
結局はこちらの都合のいい時に話を聞いてくれるだけの存在、あるいはそういった関係自体がその人にとっての人々との繋がりでしかない。そんなものが友人関係にすぎないと感じている。
ただし、私にはそんな趣味はなかった。
そんなわけで自分にとっての友人とはつまらない遊びに興じ、それは例えばビリヤードかもしれないしカラオケかもしれないがとにかくそんな埒のあかない行為や話に付き合わされること、そんな事が友人関係でしかなかった。あの頃の私には。
実際には女性関係だけはずるずるとその後も続き、友人を無くして以降も数人の女性達との付き合いだけは続いた。それらはまるでいつまでも続く閉店セールのように興行を打ち切る前の繰り返しのようだった。或いは年齢とともに増していく女性に対する責任感、そういったものから逃れる為の儀式のようでもあった。
あの彼の時と同じように
「もう、来ちゃだめだ」
と言ったりもした。
その夜、気が付くと私は再び白い空間の中にいた。沈丁花の香りと淡い色彩。
「おかえりなさい、あなた」
そう彼女は言った。
望んだ夢ではあったが私は反射的に身をこわばらせた。これまでにも夢の中で素敵な女性と出会ったことはある。しかし同じ夢を見たことは一度もない。
そういえば空を自由自在に飛び回る夢を見たことがあった。上空から急降下し地面すれすれで方向転換しながら大地や建物をなぞる様に滑空した。そして再び空へ舞い上がる。
その年は何かいい事でも起こるのかと期待もしたが結局何も起こらなかったし二度と同じ夢は見なかった。
私はどこまでも続くこの淡く白い空間の中で瞬発的に何度も目を覚まそうと試みた。しかしいたずらに目をパチパチと瞬かせるだけで空間はより一層現実味を帯びた。そして何よりも・・
この夢は実感が強すぎる――――
そう、わかっていた筈だ。これは夢ではない。
「君はいったい・・」
「ルカです。あなたの妻よ」
ぐるぐると回る意識の中彼女の声は次第に遠ざかり、そしてまた私はいつもの自室で目を覚ます。
“ルカ”ってのは男名じゃなかったっけ?福音書がどうとかマタイがどうとか。スザンヌ・ベガのあの曲だってルカは男の子だったような気がする。何を言っているんだ私は。自分自身が創り出した夢の世界の事ではないか。いいかげんな発想に決まっているじゃないか。
まてよ“ルカ”には病的な意味合いもあったような・・。だとすると丁度いいじゃないか。私の深層心理が生み出した病的な世界。
「私は気が違ったのだろうか?」
「なあにそれ」
あの時彼女はそう言って笑い、やや上目遣いで私を見た。笑うと彼女は少し上目遣いになる。媚びている感じではなく笑う時に少し顎が引ける癖のせいだろう。
「あなたは狂ってなんかいないわ。開花したのよ」
「開花?」
「あなたの脳の真ん中あたり、普通なら使われることもなく生涯を終える筈のある部位が開花したの。そこは時間も、そして空間さえも超越したところと繋がっているのよ」
リビングに置かれた黒いテーブルを前にして私は暫し考えた。朝のコーヒーだけは何とか淹れたが煙草を吸う気にもなれなかった。やはり私はどうかしているのだろう。ひょっとしたら現実と思っているこの世界もまやかしなのかもしれない。
実際には病院の白いベッドの上、昏睡状態で横たわっているのかもしれないとさえ思った。そう思うとあの時の様に目を覚まそうと試みたが目を大きく見開いているだけの自分が滑稽で冷め始めたコーヒーを啜りながら何故だか自己嫌悪した。
その日私は長い遠出の旅支度をするかのように身の回りの整理をした。入金を済ませ郵送を済ませ、午前中には洗濯と掃除をした。
人間の脳はその多くが働いていないという話を聞いたことがある。そしてそこには進化の過程で既に使われなくなった情報が格納されているとか。あのルカと名乗った女性の言う事を理解出来たわけではないし、まして信用したわけでもない。しかし私はそれでいいと思った。私が多少の妄想を抱えていたとしても誰にも迷惑はかからないし昏睡状態でないのなら尚の事だ。
あの頃の私は、もう一度ルカに逢いたいと、ただそれだけを願って過ごしていた。
映像制作の仕事を請け負っている私の名刺にはフリーデザイナーなどと銘打ってあるが実際には雑多な広告業に近く、最近では新聞の折り込みチラシのレイアウトや零細企業のホームページ管理などからもお呼びはない。
今では何でも屋だがその全てが下請け、いや孫請け以下であり二束三文の収入だった。だが金のかかる趣味を持たない私にとってはなんとかやっていけるだけの収入ではある。だから甘んじてこの生活を受け入れているし車さえ持たないようにしていた。あんな金のかかるものを維持して生活している世間様の気が知れない。どうせ独り身だし一人で生きていく分には少々乱暴な生活スタイルでも困らないのだ。
極力切りのいいところまで仕事を終わらせそして最後にリビングの黒いテーブルの上に自分宛ての書き置きを残した。今の仕事がどこまで進んでいるのか、明日明後日はどんなスケジュールで何をしなければいけないのか、そして何よりも今現在私がどのような思いで毎日を過ごしているのか、そんな事を書き記した。
私はその夜、再び夢の中で旅に出た。
「あなたが言う現実世界はあなたがここにいる間は一秒たりとも動かないの。だってここには時間という概念すら無いのだから」
自分自身の潜在意識が創り出しているのがこの夢の世界だとそのように考えていた自分にとって、ルカが私の全てを把握していることはあたりまえでしかなかった。しかし彼女の言葉は余りにも突拍子がなく果たして私の知識の中にあの様なものがあったのだろうかと思う。彼女は続けた。
「時間が動かない世界は永い時間軸のなかで点にしか過ぎないわ。無いに等しいのよ。あなたが望むならずっとここにいて・・・そうすればこちらの方が現実なの」
私たちは海の中で戯れるイルカのように時に触れ合い、時には距離をつくりながら話し続けた。そして多くの時間を口づけするために費やした。
あれからまたどのくらいの時間が経過したのだろう?時間という概念すらないと言われているのに相変わらず時間でしか物事を計れない自分がもどかしくもあった。だがルカは気にしてなどいなかった。
「なんだかヒンズー教の梵天みたいな話だ」
そう言うと彼女は
「ブラフマーとアートマの事ね。その例えは少し近いわ」
そう言いながら小さく笑ってくれた。
彼女が言うようにあちら側に居続けるということはしなかった。どんなに長居をしても定期的にこちらへ戻った。そうしなければ本当に狂ってしまうのではないかと思った。
もしも病院のベッドの上にいるのであれば例えば植物状態に、あるいはこれがただの妄想であればいよいよ気が触れることになるのかもしれない。そう怖れた。所詮ここへ戻ったところで三日と過ごさないのに、まるで自身を奮い立たせるかのように夢を打ち切った。
私は酒と煙草を一気にやめた。ここへ戻った時の体の重さが気になった。自覚はしていたがあまりに酷い。これでは毎日が憂鬱なわけだ。体はまるで鉛を引きずっているかのように重く怠かったし、わたしの五臓六腑はこの体内に生ごみを抱えているかのような不快感で溢れ自分でも嫌だった。
テーブルに残した書き置きは大いに役立ったが一秒たりとも動いていないはずのこの世界に於いて私の意識はさらに遠く、そしてそれはルカと過ごした時間?の長さを物語ってもいた。しかし、最も重要と考えていたあのメモ、「日々の心境」に関しては何の役にも立たなかった。そこには自身の殺伐とした気持ちが綴られているだけだった。
「時間という概念がなくても想いや感性は蓄積されるの。だから昨日という日が遠くに感じられるんだわ」
確か彼女はそんな事も言っていた。
私は柄にもなく運動を始めた。マシンの上でひたすらに走り続け黙々とバーベルを上げた。それ自体には何の喜びも感じなかったが一心不乱にやり続けることにのみ喜びを感じた。その原動力は可能な限りの生命の維持と出来るだけ長く“ルカに逢い続けたい”と願う歪んだ精神力であった。
ルカが棲むあの世界を望み続ける、それ自体が不健康で間違っていると思ってもみたが最早私にはどうでもよかった。
私は今はっきりとルカを愛し始めていた。
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