青い宝石 1
テーブルの上に置かれた封筒の中身を思い出せない。
まだ封をしていないその封筒は昨夜自分自身が用意したものなのに宛名を読んでもよくわからなかった。思い出そうとするのももどかしく中を確かめると大した書類ではなかったが、それでも今日中に投函しなければいけない仕事上の書面だった。
私はそんなことに驚きつつ
「大丈夫なのか私は」
と思った。それもこれもあんな夢を見たせいかもしれない。
沈丁花だったろうか。甘い花の香りに誘われて私は目を覚ました。四隅にかけられたレース状の布のせいかその空間は実体をつかめず部屋やベッドの広さを認識できない。
ベッドの四隅にレース状の布だと?少女かよ。こんな光景は映画か漫画ぐらいでしか見たことがない。しかもここは淡く透明な光の中でベッドと寝具達は限りなく白い。まるで無重力であるかのように体の重さを感じる事はなく全てが柔らかくそして暖かい。私は極上というものを悟った。
そもそも部屋と言っていいのだろうか。ここは私の見知らぬ空間だった。
なぜ気付かなかったのだろう、傍らに女性がいる。私の右手は彼女の膝の上に置かれ、その手は彼女の両の手に包まれていた。
「君は?」
「あなたの妻です」
なるほど、ようやく理解した。夢か・・。
私は吹き出すような顔になり、そして鼻の先で小さく笑ってみせた。まるで
「自分は酔ってなんかいませんよ」
とか
「これが夢だって事ぐらい最初からわかってるさ」
とでも言いたげに。
私は自身の夢の中で変に必死になっていた。
本当の事を言えば夢かと思う以前に夢でよかったと思った。自分で言うのもおかしいが最近私は見るものすべてに自信がもてないでいる。頓に気持ちが崩れかけている感が否めない。なんにせよ夢でよかった。
夢の中の彼女の顔は判然としなかったが夢なのだからそんなものだろうと私は思った。ただ、その美しさだけははっきりと感じた。
美しいだって・・・?
いや、まあ確かにそうなんだがどちらかというと十人並みというか・・どこか懐かしいような。そう、古風とか?
とにかく綺麗という事でいいじゃないか。最近日増しに自分自身が面倒くさい。
「こんな夢であればいつでも・・」
そう思った途端私たちはどちらからともなく互いを抱き寄せ、そして夢の中で求め合っていた。彼女の肩や腰やそしてあらゆるくびれはまるで私の為に用意されていたかのように私の手のひらに収まりそれを確かめるかの様に私は手を走らせた。
私たちの四肢は符合するかのような完璧さで重なり合った。
「なんだこれは?何かがおかしい」
私はこの美しい夢から覚めたくはないという一心で、あるいはそんな気持ちに支配されながら自身の疑心を無視していた。だがそろそろ限界だ。どう言っていいのだろう、どうも不自然さが否めない。普段この手の夢はいつだっていいところで目が覚めてしまう。しかし今回は全く夢から覚める気配がないのだ。それどころか、もう幾日もこうして彼女と肌を重ね合っている気さえする。
私はついに夢の中の彼女に尋ねてしまった。
「どうしたらこの夢から覚めるのだろう?」
すると彼女はいつもどおり穏やかな表情のままで眼を細め、そして眩しそうに私を見ながらこう言った。
「夢ではないの。でも、まあいいわ。ただ目を閉じて考えるだけよ」
私は目を閉じこの夢から覚める事を考え、そして眠りに就いた。
翌朝私はいつもの部屋にいた。
充分とは言えないが一人にしては贅沢なこのマンションの一室で天井の合成された板材の木目の中にいつもの空間を感じた。あの木目のあの部分はまるで人の顔のように見える、そんなふうにだ。
「やはり夢だったじゃないか」
私は当たり前でしかない事を口の中で呟き、布団の傍らに脱ぎ捨ててあったスウェットを着てリビングへ行った。リビングにあるデジタル時計の日付は昨日の続きを示している。確かに昨日の今日だ。
外では山鳩が鳴いている。
「グーグホッホホー、グーグホッホホー」
おかしいじゃないか、だって今はまだ一月だ。夏の風物ではなかったか。まあでも、たぶん私の記憶違いかあるいは空耳か、いずれにしろ私がどうかしているのだろう。 どうせそうに決まっている。
いつだって心のどこかに卑屈さがとぐろを巻いている。だが今日はどうやら本物だ。自身を全く信用できない。だがそんな自分が嫌いではない。なんというか・・そう、自分が愛しい。
とりあえず私は
「最近の鳥はまったく、季節もわかりゃしない」
そう思う事にした。
「ファーンフォーン」
まったく、この家のインターホンはどうにも聞こえづらい。なにがファーンフォーンだ。普通ピンポーンとかじゃないのか?それに一体誰なんだよ?こんな朝早くから。と言ってももう十時をまわっているのか。
「はい?」
「片桐さん。消防点検ですが」
「え?」
「一応あらかじめ通知させて頂いておりますが」
そうだった、今日か。しかも自分で時間指定していた気がする。
「すいません。お願いします」
係員が各部屋の感知器を発報させて回る。
「何で私の名前知ってたんです?」
「表に書いてましたよ。何か?」
ああそうか表札か。係員は
「ありがとうございます。問題ありませんでした」
と言いながら立ち去ろうとしたが私は
「この部屋はいいんですか?」
などと余計な事を聞いてしまった。
「そこ、最初にやってますから」
自分自身面倒くさいと思っていたくせにどうにも細かい事が気になる。
さっきから色んな事をごまかしてはいるがどうも何かがしっくりと来ない。意識が希薄だというか、しいて言えば昨日と今日との繋がりが希薄な様な。
そして・・・
テーブルの上に置かれた封筒の意味が分からない。昨夜用意したものなのに。私は中身を確認し、そしてため息をついた。
「ああそうだったな。今日中に投函しなければ」
キッチンのシンクには洗い物が残されており不思議とそんなことで日常を取り戻した。
「そうか、昨夜は食器を洗わずに寝てしまったのだった」
私は遅い朝食を済ますと最寄りのポストへ郵便物を投函しに外へ出た。短い距離だが自転車には乗らずに歩いたことで少しは運動した気になった。帰りにコンビニで買った煙草がいつものニコチン、タール共に1ミリグラムであることに少しだけ満足した。そんな一日だった。
私は四十を過ぎて未だ独身だ。女性たちとの縁がなかったわけではない。
「片桐さんはきっと、まだ遊びたいんでしょ」
知人の女性にそんな事を言われたことがあったがそれではない。結局は一人でいたいと思う事を選び続けた結果でしかなかった。ただしその「一人である」という事に不自由を感じたことはこれまでただの一度もない。それどころか満足さえしている。
そんな私は三十を前にして既に人間嫌いになっていた。正確を期すならば人と深く関わるのが嫌だった。煩わしい多くの他人たちとの付き合いが嫌だった。
徐々に人づき合いを減らしていく中、友人と呼べる最後の相手にさえ
「もう、うちには来ないでくれ」
と言ったほどだ。
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