16 ITP特発性血小板減少性紫斑病
~比丘尼情欲永逝病院 又は ITP特発性血小板減少性紫斑病~
「根津さん?おい、あんた根津さんじゃないか」
———ん、誰だ?
「どうしたの?こんなところで寝て」
ん———あ、そうか。補修工事の警備員。いつも一番早いんだよな。
「ちょっ根津さんってば」
「あ・・・・れ?なんで俺こんなとこで寝てんだ?」
「ほんとだよ、深酒でもしたかい?」
「たぶん———憶えてないけど・・」
「よっぽど飲んだんだねえ・・って、ちょっとあんた嘘言っちゃいかんよ、顔真っ青じゃないか。こりゃ救急車じゃないかい?」
「救急車?そんな大袈裟な。どっちにしろ今日病院だから」
「本当かい?でも普通じゃないよその顔色。ちゃんと病院行って下さいよ」
病院は本当だった。部屋へ戻ると銀次は暑いシャワ—を浴び柔らかいコットン生地のシャツに袖を通した。いつもなら昨夜の失態をじわじわと思い出す頃だ。だがその頃合いになっても何一つ思い出せなかったしそもそも前後不覚になる程酒に飲まれた事など数えるぐらいしかない。
ただ脱いだジ—ンズの腰のポケットから出て来た紅い筒を不思議に思い
「万華鏡だな。どこの飲み屋で貰ったんだか・・・」
ただそうやってそれを眺めて途方に暮れた。
* * *
夏の陽射しが目に入る全てのものに光を放つ事を強制し、実際にはまだ六月も下旬だというのにこの病院も今はその眩しさの中にあった。
銀次が通院する城北衛生病院はここ東京城北地区の主要な医療機関であり、地元の人には親しみを込めて「永逝病院」と呼ばれていた。もっと酷い輩(やから)になると法人化する以前の名称も付け加え「比丘尼(びくに)情欲永逝病院」と愛着の念を惜しまなかった。因みに「比丘尼」とは尼僧、つまり尼寺に由来したがその地名も今はここには残らない。正しくは「社団法人医療振興協会 城北衛生病院」である。
ここは今でこそ一般総合病院として運営されていたが、かつては終末期を迎えた患者のための施設であり、その前身は精神病院だったと病院の職員が教えてくれた。そして更にそれ以前、戦時下に於いてはある種の人体実験が行われていたとの噂もあったがそれについては噂の域を出ない都市伝説のようなものらしい。
とは言え古い病院の建物というのは得てして霊的に冷たい空気を感じさせるようでその世代世代の子供らは
———「~病棟の何号室で眼球を抉り取られた入院患者が・・・」
などと勝手な事を言ったものだ。
ただ銀次には病院とはそういった、つまり精神世界の内在的な部分と直結する空気感を抱かせるところだという思いがありこの病院にもそれがあると思っている。
幼少の頃より病弱な彼の頭の片隅には、故郷の大学病院の裏庭の寂しくも陽だまりのある光景や、静かに降り続く雨の中、マッチ箱のように小さな家の窓辺に一人佇む自分自身の姿などが、実際にあった事かどうかは知らないが一枚一枚のスナップ写真のように丁寧に仕舞われている。剛健そうに見えてその実だいぶ内向き、それが銀次の本性だった。依って彼はこの病院の事も嫌いではない。
「ポ—ン——~番の方診察室5番へお入りください」
診察を待つ番号札の数字が待合のモニタ—画面に映し出され、彼はいつも通り玄川(くろかわ)医師のいる五番の部屋へ入った。
「先生、今日早いですね」
「うん。今んとこ順調順調」
医学の吸収に熱心すぎる銀次の事を本来であれば鬱陶しく思っていても良さそうなものだが玄川先生はまるで友達のようにいつも気さくだ。銀次もまたこの医師が好きである。
「さあ、どうです調子は?」
「先生のおかげと言っていいんでしょうね、大分いい感じです」
「悪い要素は一つもありませんから、とにかくゆっくりいきましょう」
医師は検体採血の結果を見ながらまるで楽しそうに言った。
採血結果の表は銀次自身が御茶ノ水の大学病院から持ち寄ったものでここでは主に精神医学、銀次の場合は脳外科としての受診であり玄川医師はその分野のご専門だ。医療である以上内科的な事にも一応目を通す。一般には神経内科と言った方が無難かもしれない。
「先生、一度聞きたかったんですがちょっとお時間取らせて頂いてもいいですか」
「ん?」
医師は椅子を銀次の方へ向け、今日初めて銀次を見るような顔で彼を見た。
「私の場合血小板に限らず白血球も赤血球も足りてないって事ですよね」
「つまり好中球やヘモグロビンなんかもね。だから貧血」
「ということは癌治療における骨髄抑制と同じことが・・」
「勉強してますね—。でも違います」
「えっ違う?あそうか。俺の場合経過が悪いんであって抑制はないか・・・」
———血液は骨髄で造られ多くの血液疾患はその段階では正常だ
勝手に出ばなをくじいたがまだ伏線だ。自分で場を引っ掻き回しておきながら、忘れないうちにと本題に入った。
「脳細胞と言えば一般に脳の神経細胞とかニュ—ロンの事じゃないですか先生。じゃあ脳細胞本体って何してんすか?そもそも普通の細胞ですか」
「普通なんじゃない?」
「か、軽いなあ先生」
「だって脳の細胞だからって一つ一つが物事考えてるわけじゃなし、それにそんな事分かったら苦労しませんねぇ」
「じゃあ血小板数が一万七千台まで落ち込んでいた初めの頃ってそんぐらい枯渇していたら血管の末端にまで血が行き届かず脳細胞のいくつかは死滅・・・」
「ちょっとちょっと、な、何だって?虚血状態とは違いますよ」
銀次の表立った病名は既にはっきりしていた。ITP——特発性血小板減少性紫斑病。主に止血に必要な血液中の成分が極端に少なく、彼の場合正常値の十~二十分の一まで落ち込んだ。あと一歩で生死を彷徨うレベルであり遂に吐血までしていたが今はその事ではない。
後に自分の混同ぶりを理解はしたが医者というのは往—にして取り付く島もない。この玄川先生にしても暇な訳ではない以上銀次としても畳みかけるように話すしかない。
「先生、先週ラジオ聞きましたよ。あれ先生ですよね」
そう、この玄川先生は本来の専門がどうだか知らないが毛細血管、特に脳の毛細血管に関する学術論文を発表している。先生は主治医として二人目で、最初の医師はこちらはこちらで血液学会の都内でも数少ない研究員だった。血液内科である以上、多くが学会員ではあるにせよ研究員となるとまた別の事らしい。
何しろ前任のこの先生が勧めてくれた新薬の投与が後の改善の起爆剤になっている可能性もあった。事実その注射を打てば血小板の値は跳ね上がる。ただ今後生涯毎週欠かさず、そして一回ン万円というお高さが現実的ではなかった。このときの先生もまた人当たり良く大らかな方ではあったが銀次としては弱冠匙を投げられた感もある。
「ん~当たらずと雖も遠からず、いや遠いな。実際のところは脳科学の・・・一体どうしたの根津さん?」
銀次の話の成り行きに困った顔をしながら玄川医師は聞いた。
「いや病気以来頭冴えないんで、元—冴えない頭ですが・・・ははは。身体のハ—ド面が衰えるのも辛いことですがソフトがもうちょっとこう何とかならないかと思って」
「私が毛細血管は生き返ると言ったとしても脳細胞はそうはいかない。第一、脳の神経細胞の死滅なんてしょっちゅう毎日沢山ですよ」
「わかってます。理解してるつもりです。ただなにも再生させようってんじゃなく、ましてアンチエイジング?食い止めようってんでもなく、ほら脳は不足を補うために使われていない部分が活性化するって言うじゃないですか。そんな感じで・・・」
「むむう~」
玄川医師は一つ間を置き
「そりゃあ最新の医学まで持ち出したら色—なんでしょうが、でもね根津さん。そんな『サルノコシカケ』みたいな胡散臭い事は忘れてゆっくりじっくりやって行きましょ。私の話した患者の話憶えてますか?変な物煎じて飲むのを止めさせたらみるみる改善したっていう・・・」
銀次は帰路に就く院内の敷地内、「トウジュロ」と書かれた札が根元に差し込まれているヤシ科の植物と、今は使われていない給水塔との間を歩いていた。「サルノコシカケ」ってのは猿の腰掛の事であり樹幹に生えるキノコの事だが、先生だって何も最新医学が胡散臭いと言ったわけじゃない。あんまり銀次がやれビタミンKには抹茶だとかカリウムならパセリだとか言うもんだから悪い例えとして先生が話してくれた事だ。特に院内では後がつかえているし、もうこれ以上は仕方がない。
一時期彼には福祉事務を担当してくれる若い女性がいた。かつて指定難病患者である根津銀次は自治体の保護を受ける事が妥当とされた時期があった。彼女は包帯だらけで杖を突く銀次を前にしても常に努めて明るく振る舞い、いつも二人は冗談を言い合った。
ある日、些細な日常事が日増しに困難になっていく中、銀次はその女性に椅子を引いてもらい漸くそこに座りつつ話し始めた。
「俺、最近ちっとも頭回んなくて・・・きっと脳の細胞の一つや二つは軽く吹っ飛んでるよ」
と遂に悲愴な思いを隠せぬまま彼女に告げた。彼女はさすがに目を伏せて黙り込んでしまった。
その後奇跡的な復活を遂げた銀次の身体だがそれからしばらくは本来の身体能力、特に脳へのダメ—ジと戦う事となった。或いは今だにその戦いは続いている。だが復活の勝手なイメ—ジだけは出来ていた。どうせなら派手に映画「ル—シ—」の中の超人だ。
通常人間の脳はほんの数割しか使われていないらしい。だがあの作品の中でスカ—レット・ヨハンソン演じる主人公ル—シ—の脳は百パ—セントまで開花する。
その時の福祉担当の彼女が今現在どのセクションで働いているか等もう知る由もない。だが彼は今心の中でその彼女にそっと呟いた。
———— 俺こんなに元気になったよ———きっと、あともうちょっとさ・・・
* これはフィクションです。抗がん剤治療における骨髄抑制やそれに起因する虚血状態であればまだしもITPによる影響となると医者は否定するはずです。念のため。
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