14 捌 紫詰草と黒い岩
どんなに動いてもまるで幽霊じみて微かな揺らぎ。
本来存在しない場所に、そして時間に自分が居るのだから足が幽霊みたいだなんて当たり前にさえ思える。
そんな自分達の足取りに銀次と女二人は行く道を選ぶ理由など本当はなかった。しかし銀次のたっての希望で「人らしい」道を選んで歩を進めた。
彼には確かめたい場所があったから―――
幼少の頃ここで暮らした思い出に必ず出て来る場所がある。それは保育所から家へ帰るまでの道程の中ほどにあり、切り立った崖が川に向かってせり出している場所だった。その迫りくる山のせいで遠目にも辺りは暗く、眼下に臨む川に挟まれ道も狭小だった。だがその岩肌の山を緩やかに迂回すればようやく銀次の住む家だった。
「あった。これだ・・・」
「紫詰草(ムラサキツメクサ)じゃな。甘い蜜が出よる」
「ああ、よく吸ったんだ。アカツメクサともいうがここのは本当に紫だ。そして・・・ああやっぱり」
滑らかな光沢の大きな黒い岩――――――
銀次は何かを確かめるようにその巨石を愛おしそうに擦った。
「いや、すまん。それだけなんだが思い出の中でこの花といつもセットなんだ」
紫詰草とこの黒い巨石のある風景は額縁に収まる絵画のように ―――――例えばゴッホの描く草花のように印象的に燃えたち、そしてそれは鮮烈に銀次の記憶の中に焼きついていた。
* * *
銀次がここへ来るために通り抜けてきた坑道は、思っていたよりも中が広くそして整備がされていた。
今は蝋燭(ろうそく)を松明(たいまつ)のように或いは懐中電灯代わりとして携えてはいたが、あの暗がりの中、まして桃華マンションの三〇一号室にたった一歩足を踏み入れただけなのにという非現実の中では恐怖に支配され錯乱したとしても無理もなかっただろう、と、そう自分を弁護した。
だがこうしてみると銀次がここを通り過ぎた際に足元に感じたごつごつとした岩は、ほんの壁寄りの一角にあるにすぎない。そして少なくとも途中までは滑車を転がす為のレールが走っており、実際の坑内は人が三人ほどは行き交う事が出来るほどの広さがあった。
辛うじてあの時の無様(ぶざま)な自分はこの二人には見られていない。
そう思う反面、今はこの二人が同行しているから平気でいられるのも事実。銀次はひとりまた赤面した。
――――――そうか、帰るのか・・・・
銀次の胸は一抹の名残惜しさという不確かな感情と、そして込み上げて来る当たり前の郷愁とに塗(まみ)れた。
その時、先を行く錫乎が急に振り返り声を張り上げ二人を促した。
「姉者、いかん!今日は早いぞえ」
「何と・・・走れ銀鼠!」
「ど、どうした?」
「思ったよりも褻の到来が早い。早うせいっ!」
銀次は訳が分からずも二人に同調し全力で駆け出した。
「お主、昨日逃げておった時にも思うたがその走りは何とした?」
「な、なんのことだ?」
「わしらは慣れておるがお主は既に十分に速い。その走りが故じゃ」
「一体何の話を・・・」
「それは南蛮(ナンバ)じゃ」
―――走るのか質問するのかどっちかに・・・・何!ナンバ!?
「ナンバ走り!今俺はナンバ走りかっ!」
銀次の古武術、それは興味本位で始まった。
左右の手足のそれぞれを同時に前に出す歩行法は古代のこの邦の民の歩き方だったらしい。野蛮な身の熟しとして封印されたそうだが歴とした事実であり、例えば明治の時代に日本を訪れたオランダ人旅行者の記録にも地方ではその姿が残る。
研究者の中には「宮本武蔵が一晩で何千里の山道を」といった文献もこれを極めればあながち嘘ではないと紐解く者までいた。
何よりも最近の運動力学においては理にかなった走行法とまで言われ、サッカーの練習に取り入れられるなどは実に最近の話だ。
「今話す事か!来るぞ姉者!」
錫乎が叫んだ。
「見るでない銀鼠!」
―――――――遅かった
銀次は走る三人の背後から高速で飛来する無数の影を見た。
あの茶器には描かれていなかったその姿。
昆虫のように羽を生やし奇妙に頭の大きな出で立ちのバランスの悪いその影は、いずれも邪険で陰湿に顔を歪めて嗤(わら)う唐子達の群れだった。
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