08  弐 中外鉱山

 銀次は歳のせいかすっかりやせ細った歯を食いしばりながら目の前に広がる光景に耐えていた。


 後戻りは恐怖だった。さっき入って来た筈の外神田のあの部屋———  あの三〇一号室の玄関扉が無かった。

 ここへ至るまでにもひょっとするとあともう一歩だったのではと未練がましく思い何度も引き返そうかと考えた。だが、その都度せいぜい一歩弱しか踏み込んでいない筈の三〇一号室の土間の中、際限なく後退した時の恐怖が蘇った。


————虻(あぶ)が群がる

 銀次は半狂乱になって虻を払い続けた。半ば顔に掛かるもの以外には慣れ始めていたしそれ以前に彼はすっかり疲れ切っていた。だが今は虻を払い除ける事に必死だというそんな素振りを続けた。

 それには理由があった。虻を払い続けなければならない理由が・・・そしてその間に整理しなければならない事が


 彼の眼下にあの町が見えていた。



     *     *     *



 今から十数年前、銀次が自身の足跡を確かめる為にここを訪れた時には既にそこには町は無く廃屋すら無かった。

 ここへ来る途中に今でもそびえる様に鎮座ます焙焼炉と僅かに残された多少の石畳だけがその目印となった。

 驚いた事に今では地元に住む人たちでさえかつてそこに町があったという事実をまるでおとぎ話のようにしか知らない風であった。


 ところが彼の驚きはそれで終わりではなかった。


 旅のその日、銀次は石崎川に沿った道路のT字路に立っていた。四十年ほど前はこの道路をマンガン、或いは砂利を積んだ「中外鉱業」のダンプカーがせわしなく行き来していた。

 彼を心配したのだろう、若い駐在員がやって来て物腰柔らかく寄り添った。駐在さん ———まあ現代の話なのだから警察官曰く

「正直僕は山菜を取りに中へ入るんですが・・・熊出ますよ」

 いくらなんでも熊にはかなわない。しかも丸腰で。銀次は立ち入り禁止のバリケードを苦々しい思いで眺めあの地区へ辿り着くことを諦めた。その時点では町は、あの町の痕跡はそのバリケードの向こう側だと思い込んでいたのだから。


 数日後、東京へ戻った彼は旅も終わったというのにあの場所を調べ続けた。

何かが腑に落ちない———

 道は途中石崎川と交差し小さな橋を渡る。早川橋だ。そして車であれば間もなくあのT字路へ到達する。

 銀次は国土地理院のページから当時の航空写真をダウンロードし、片方ではグーグルマップを拡大してその二つを吟味した。


——— 小さな橋、早川橋

——— 曲がりくねった川沿いの道路

——— あのT字路


「あっ!」


 当時彼がその驚きを父に話すと彼の父は

「あれから何年だ」

と彼に聞いた。

「ざっと四十年」

 すると父はこう言った。

「三十年あれば山になる」


 旅の前、予めインターネットで確認していた小学校——— 廃墟と化した若葉小学校の校舎や幼少の彼が通った保育所などの写真は全てあの旅の日よりさらに数年は前に撮影されたものだったらしい。だがあの若い駐在員は歳の頃三十代、どうやら彼自身よく知らなかったに違いない。


 銀次はあの日、あのT字路でかつての早川地区(当時中外と呼ばれたその地区)のど真ん中——— 若葉小学校の前に立っていたのだ。


 そして彼は今、再び歯を食いしばった。己の常軌を見失わないよう、そして眼下に広がる町を今はまだ直視することなく—————


* 追記:校舎の撤去等について改めて確認したところさらに驚く事実がありました。

ブログ「銀と錫」発端と上ノ国町にて詳細

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