02  菱菊 麻の葉 万華鏡

 ここへ来て間もなくまだ引越しの荷物も堆く積まれたままの頃、銀次は寝苦しい眠りの中で不思議な夢を見た。


 彼は今、玄関前の通路に立っている。

 あの洗濯機はまだ一度も稼働させてはいなかったが引越し業者の若者たちが慣れた手つきであっという間に設置して行ってくれたので入居以来から既にそこに有った。彼は今それとは反対側、つまり階段のある入口の方を見ている。


 桃華マンションも御多分に洩れず、ある種の古い造りの他所様と同様に四の番号がつく部屋はない。銀次の部屋は三〇五号室、階段を上がって左手には三〇一号室、そして右手に三〇二号室を見ながら銀次の所までは途中に二つの部屋がある。

 銀次の部屋はワンフロアに四室の端部屋、向こうには階段を隔てて造りの異なる棟と三〇一号室、といった具合だ。



 夢の中、それらの部屋の玄関扉が全て開け放たれていた。


 銀次は夢の中で出掛けるでもなく用を装いながら最初の部屋となる三〇三号室をちらと覗いてみた。

 だが・・・もぬけの殻だ。

 確か夢の中では六室程度が横一列に並び、どれがどの部屋の記憶だったか定かではないが次の部屋もそのまた次も人の気配はなく荷物もなかった。


 実際にはお隣は建築関係の会社が事務所として居を構え、昨日もそこの従業員と会話をしている。しかし夢の中では人の気配はなくどの家も突き当りの部屋の窓が同時に開け放たれていた。

 その様を見て夢の中の彼は最初素直に管理会社が空気の入れ換えをしていると思った。ただ半ば夢だと感じながらも全体に埃を帯びたような薄ら寒さが気になった。


 換気がされているにも関わらずどの部屋の畳も一様に腐ったようであり、どの部屋にも置き土産であるが如く見るからに黴臭そうな布団が残されていた。

 銀次の部屋同様畳の部屋は彼が今立っている玄関から見て一番奥に見えたが、あの畳の表面を覆うまるでキウイフルーツのように鮮やかなグリーンの色合い、あれは苔じゃないのだろうか。それにここからではよく見えないがあの直立した白い小柱はキノコに見える。


 布団は時に畳まれ時に抜け殻の様に放置されていたがどれも一度触れたら粉々に崩壊しそうで、特に中身の綿は窓から外へと拡散し二度と元の姿へは戻らない気がした。


 家具などは一切無かったが中にはポスターの様なものが貼られた部屋もあった。


デコイチ————

 蒸気機関車D-五十一。銀次自身、幼少の頃親に買って貰ったおもちゃのデコイチに跨って、子供の短い足で地面を蹴って遊んだ記憶がある。だが彼はこのポスターの隅に小さく印字された文字を見て驚いた。


台湾鉄路管理局———

 こいつは昭和のSLブームのものではない。この画にある機関車は終戦間もない時期に製造された車両じゃないのだろうか。写真が現存する事自体奇跡だが日本はその頃から鉄道車両を輸出していたと聞いたことがある。



 もしもここにあるものがリアルタイムに当時を残しているとするならば、この建物はゆうに築六十年は越えている。

 だが銀次がここへ入居する際、この桃華マンションは築三十五年という事になっていたし消防法だか建築基準法だかは知らないがそんなデタラメが通用するとは思えない。

 しかし築百年の日本家屋だってあるんだからあり得ない事とは・・・。



 その時の銀次の意識はこれが夢だという事も未だ明確には知らずに現実のものと同じ眩暈を覚え、急ごしらえの煎餅布団の上で彼の体は小刻みに痙攣し続けた。

 彼はこれが夢だという自覚がないままに現実世界の自分の部屋を思い出した。

———— あの柱、端部屋の外壁面だというのにあれは板で囲っているだけだ。その証拠に叩くとペコペコと音がする・・・。


 たぶんあの板の中には本来の柱があるに違いない。きっと朽ち果てた姿で。


 夢の中の探索は最後の部屋、三〇一号室に差し掛かった。ここは現実世界に於いても空き部屋で例の「別棟」にあたる。

 どの部屋も玄関を入ればすぐ台所で三〇一号室も同じような造りになっていた。その台所と奥の部屋とを隔てる引き戸の上の、天井に近い梁に一枚の写真が貼られている。

 写真はどこかの上棟式かあるいは改修工事前の記念のようだった。また、あるいは一目で別嬪さんとわかる程美しい少女像とも言えたがそれは偶然映り込んだものらしく、彼女の姿はカメラのフレームから流れる様に消える寸前だった。

 銀次はいくつか気になった。普段なら夢で考える事などは堂々巡りを繰り返すだけで話が先に進まなくなってしまう。だが今夜はなぜか思考が追い付いてくる。


 一つはこの画の少女の瞳には後にもう一度、そして今と同様ファインダー越しに会う気がした事だ。ただあまりにも突拍子もない感性に自分でも呆れ、その事はすぐに忘れた。

 もう一つは彼女の肌が不自然なほど白く・・・いや、白いんじゃない。姿が希薄に透けて見える事だ。写真が古いせいだろうか体を透過して背後の塀が見えそうなほどだ。


 次の瞬間銀次の口から呻くような声が漏れた。

————透過・・・している

 透過しているように見えるんじゃない。実際に少女の背後の塀に書かれた文字が透けて見えている。それはシャッター速度と彼女の動きとの関係ではなく、現代で言うと画像処理の様に鮮やかでもあり不自然でもあった。

 そしてその塀に嵌め込まれた青銅の表札に、書かれた文字は

———―桃華マンシオン


『アナタ何してる』

『お、大家さん』


 銀次は文字通り跳び上がった。会った事のない人物をオーナーと認識しながら。

ああ、目が廻る。そうだ夢なんだ。この忌々しい夢から早く・・・。

 銀次は今、確実に夢からの脱出を確信していた。だが驚いた事に徐々にこの眩暈の様な夢から醒めつつも何と会話はまだ続いている。


『換気ですか』

『そう』

『ああいうの剥がさないんですか』

『次、入居決まれば剥がすね』

『あれは何でしょうか』

銀次は何かを指差し尋ねた。が、オーナーは

『アナタもう行く、ここ閉めるから』

と言い、その言葉を最後に銀次は夢から帰還した。



———あれは・・・

紅くて・・・そう、お手玉の様な———

———・・・何でしょうか

和風の柄模様、紅い筒



 銀次は今では濡れ煎餅と化した布団を跳ね除け目の前の襖の枠を掴み、掴んだ枠柱を手前に引くようにその反動を利用して一気に身を起こした。起き上がった勢いそのままに二枚の襖を同時に両の手で掴み上げ、下の敷居から鴨居の側へと持ち上げた。そして外した襖を脇へ退かすといきなりテーブルを動かし始めた。

 思った通りそれをきっかけにして段ボールの箱は次々と空になって玄関前に放り出され、引っ越し後なかなか進まなかった片付け作業が大きく前進した。

 それほどまでに初動の勢いは功を奏し、最初に動かしたでかいテーブルは後にも先にも銀次がこの家で引きずった物としてこれが最初で最後となった。


「やれば出来るじゃねえか」

 そう思いながら玄関前で硬い腰を庇う様に伸ばしつつゆっくりと立ち上がったその時、彼の視界の端に紅い色が飛び込んできた。

「何だ?アレは・・・」



———あれは・・・

紅くて・・・そう、お手玉の様な———

———・・・何でしょうか

和風の柄模様、紅い筒



 三〇一号室の前、玄関扉を開けて直ぐぐらいの場所に夢で見たアレが立てて置かれていた。


———行っては駄目だ!

銀次の内なるものが引っ掻くような嫌な音を立てて軋りだす。


———来るの、さあ!

別のものが彼の背を押し彼の手を引く。


「お、俺は・・・行きたくない!」


 次に気が付いた時、彼は既にそれを手にして三〇一号室の前にいた。だが不思議ともう怖くはなかった。

 そう、彼は確かに怯えていた。だがこれを手にした瞬間から何かが変わりを遂げていた。


「これは万華鏡だ・・・。俺の育った家にも同じものがあった」

 菱菊や麻の葉模様の愛らしい生地に覆われた筒。その中を覗けば柔らかい光を通してくるくると回る光の華々が見えるはず。銀次は筒を宙に翳して穴を覗き込んだ。

 筒の中は柔らかい光どころか思っていたよりもその周囲を薄暗い色に縁どられ、その闇の中で幾何学模様の華の輪が見え始めるその刹那、逆・に・中・か・ら・こ・ち・ら・を・覗・く・その瞳は虹彩それ自体が万華鏡の織り成す華のように美しく、そして優しい目をしていた。


 この時銀次は、例えば何かを忘れている時にも似た心の中の引っ掛かり、或いは失念した感性とでも言うべき何かをその胸に覚えたはずだ。だが何故だか次に彼の胸に去来したのは別の事だった。

「そうだ、表札だ!」

 一階へ駆け降りると彼は建物を囲うブロック塀の通りに面した突端へと急いだ。そしてここかと思う箇所のブロックを覆う蔦葛を引き剥がそうと躍起になった。だが蔓草はまるで塀から養分を摂ってでもいるかのように張り付いてびくともしない。

 ふと彼が考えていたより僅かに下に何かが見えた。

「これだ!」

銀次はしつこく拒絶する蔓を力任せに押し広げ一文字一文字確認していった。

『桃——華——マ——・・・』

————桃華マンシオン


 今は赤褐色に赤茶けてはいるがそれは紛れもなく錆びた青銅の表札だった。

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