00 プロローグ 脱却の深淵
———— 遠くで太鼓の音が聞こえる。
祭り太鼓だ。
祭囃子は笛や鉦の音そして勇ましい掛け声とが徐々に鮮明さを増しながら次第に近づき間もなくこの桃華マンションの前を通過するかと思われた。どうやら去年のこの日あたりはまだここへ越してはなかったらしい。
根津銀次はモニター画面から目を逸らし閉じた瞼を軽く指で押さえると作業の手を止めサンダルを突っ掛け外へ出た。三階の階段脇まで行くと銀次の部屋とは反対側、道路に面した外れから高みの見物と決め込んだ。
祭り行列は最初に山車が、次に神輿が、そして最後に自転車を押した奥さま連が追い越そうとするでもなくあたかもママチャリという山車を引きながら祭りに続いた。実際にはあれは追い越そうにも追い越せない。
小さな神輿だったが数えるとそれでも四十人ほどの担ぎ手がいた。声の勇猛さで言えば男性に比べて少数派ではあったが女性の方がはるかに果敢である。どんな囃子の順序になっているのかそして一体どこに合図があったのか、祭囃子は時折ガラッと変調しそれに続いて掛け声も一斉に節を変えるのが何とも耳に心地よい。
折しも時は夕刻、子供たちに帰宅を促す町のアナウンスがそれに被さる。いつもは聞こえないだけなのか普段耳にした記憶は無い。だが兎も角こうなってくるとなんと無粋な事か。そんな事を思いつつ銀次はそれでもいいものを見させてもらったと心の中で呟いた。
「戻るか・・・」
当然ながら三〇一号室の前を通過して————
彼は踵を返した。
————あの夜、紅掛(べにかけ)と名乗った女は言った。
『二度と来ぬがよかろう・・・』
然しこの日、銀次の右手はほとんど無意識のうちに三〇一号室の玄関扉へ向けられた。そして彼の右手が取っ手を掴み左へ回そうと・・・その時————
『ォォオ噁噁噁噁噁噁噁噁噁噁噁ーーーーーー喑・喑・喑・喑・喑・喑・喑・ン・・・』
この世のものとは思えぬ声ならぬ声が、或いはまるで苦悩するかのようなどよめきが、雄たけびの如く三〇一号室の内部から聞こえて来た。
音は一瞬の間を置いて町の各所に設置された四方向を向く拡声器から全方位的な時間差と圧倒的な破壊力を持ってまるで嘶く山彦の如く鳴り渡る。
『そおとォでぁあそんでいるみなさんんん・ン・ン・ン・・・』
帰宅を促す役場の声が、今では憎悪に満ちた咆哮となってそれに混ざり合う。
辺りは急激に暗くなりそれは気象的な急変などというものではなく単純に夜の闇だった。
どういうわけだろう、通過していった筈の祭りの行列が ————距離にして二町ほど先へ進んでいた筈なのに次第に速度を上げて地鳴りを伴って戻って来る。
人々は町会の名が書かれた法被姿の背中をこちらへ向けたまま宛ら録画したフィルムの逆回転の様に後ろ向きで桃華マンションへと近づいてくる。
行列は今では祭礼行列の様に銘々が時代時代のいでたちとなり、よく見ると狐やひょっとこおたふくにそして異形の者の真白い面を被っていた。
銀次は自室へ向かって駆け出した。
途中何度もバタンバタンと激しく繰り返す音が聞こえて来る。振り返らずとも気配でわかる。三〇一号室の扉が常軌を逸した速度で既に何度も開閉を繰り返している。
銀次は台所に突っ立ったまま背中に冷たい汗を感じながら必死で冷静さを取り戻そうとした。
『俺は一体・・・』
一体俺はここへ来てから何を見た。ここへ来てから何が起こって何を見た?いやここへ来てからではない。そのずっと前からだ。
初めは頭の中の爆音————― 違う!もっと前だ!最初は脳だ。ああああ脳が、脳が委縮する。
それからここへ来てすぐあの夢を見た。夢全体が埃をかぶった様な物憂げなあの夢を。そして・・・
彼は食事用の小さなテーブルの上に置かれた万華鏡を凝視した。
なぜ俺はこれを持っている?
夢・の・中・の・これを何故。
『確か・・・確かこの中には・・・・』
銀次は万華鏡を掴み上げ中を覗き込もうとしたが激しく震える右の手と同じく震える左手の両の手で支えなければならず
『俺は一体いつから・・』
そして何度も万華鏡の端を額や頬にぶつけながら
『俺は一体いつから・・』
ようやく中を覗き込んだ。
「うああああああ————」
間違いであって欲しかった。
自身の気のせいであって欲しかった。
しかし彼が今その中に見たものは・・・彼の眼を見るもう一つの眼だった。
「俺は一体・・・うああああああああ」
銀次は改めて絶叫した。
「べ、紅っ———」
祭囃子が近づいて来る。
「シャン・シャン・ドン・ドン・ドン!バキラ!、シャ・シャ・ド!シャ・バギギギギギ!」
もうお囃子の体を成してはいない。祭囃子が近づいて・・・
「紅掛っ!紅掛————」
その時
銀次の部屋に突風が巻き起こり玄関扉が外側へ大きく打ち開いた。ほぼ百八十度の回転の果てに扉は激しく風呂場の外側の外壁に打ちつけられそのまま壁と窓とに貼りつくように静止した。
突如現れた髪の長いその人は背中に逆光を受けたかと思うと直後には眩い光を正面から浴び天空の秩序はまだ定まらない。
「うろたえるな銀鼠(ぎんねず)、大丈夫じゃ」
「紅掛!紅掛!べ・・・」
* * * *
何時しか彼女の周囲の空間は徐々に昼の明るさを取り戻し世界は今改めて夕暮れ時を迎えようとしていた。数ブロック遠く離れた町角からは楽し気な祭囃子が聞こえてくる。
「教えてくれないか紅掛———」
「・・・・・」
「紅掛・・・俺は一体いつから・・・」
「お主は狂ってなどおらぬ。人一倍正常なだけじゃ」
そう言って彼女は小さく一歩前に進み出て狭い台所の玄関のたたきを上がった。そしてすぐそこに、今はただ力なく立ち尽くす銀次の両腕を引き寄せて力一杯抱きしめた。
「お主、それでも男であろう。男だったらわしを抱いてみい」
* * * *
今、空間と時間とが今日という一日の幕を正しく閉じる時、さては本能のなせる業なのか銀次は自身の中に潜む狂暴さと初めて直面していた。だがその事を隠すでもなく今はただひたすらに目の前の美しい女(ひと)を貪った。
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