青い宝石 4
「ほんとうにそっくりね」
ルカは小さな背中の向こう側で拗ねる様に言った。だが不思議とやっかみには見えなかったし非難めいた事も感じられなかった。
「結婚するんでしょう?」
そう言いながらルカはまるで目の動きだけで確認を求め視線を目じりへと流した。いたずらの様に意地らしくまるで妬いているかのような仕草だったが、そこには淋しさなどは感じられずまるで楽しんでいる様にさえ見えた。
「君はここから出たいとは思わないの?」
「何の話?」
「僕らはいつもこの白い空間の中にいるじゃないか。この世界の外は一体どうなっているの?」
「あなたがそれを望んだ時私もそう思うのよ、きっと。でもどうして?」
「君はなんだか可哀そうだ。初めから僕の妻だし・・。指輪でも買いに行かないか?」
「あら、気を遣ってくれているのね?この世界では指輪ぐらいどうにでもなるわ。でも何だかすごくうれしい」
私たちは丘のある町の小さな宝石店へ辿り着いた。
田舎の貴金属店の様に時計や眼鏡などが雑多に置かれたその店は、しかしあるもの全てがキラキラと光り輝いていた。
私たちはその中から一つの指輪を選び外へ出た。小走りに丘を駆け上がるルカの小さな背中を見ながら私はゆっくりとその後をついて行く。
丘の上から見た町はいつだったか訪れたニューポートビーチの景観を思い出させた。町にかかる大きな陸橋から眺めたあの町。夕日に染まるあの赤い町。
しかし山々に囲まれた夢の中のこの町はおとぎ話のそれに近かった。まるで盆地の中にガラクタをひっくり返したようなこの世界は雑多ながらもそれ自体が宝石箱の様に私には思えた。
私たち二人は丘の上で互いに抱き合い、私は右手で彼女の左手を光の中にかざした。彼女の手に収まった指輪には名も知らぬ青い石が嵌め込まれていてそこへ夕日の赤が溶け込んで不思議な色彩を放っていた。
そうやって私たちはいつまでも指輪を眺めそして時折口づけをした。
「行って来まっす」
「気をつけろよルカ」
エミと私は結婚しやがて子を授かった。産まれた娘にはルカと名付けた。私にはそれ以外の名など考えられなかった。妻には
「音の響きがいいから」
とだけ伝えた。
妻の出産を期に私は二度と“あちら側”には行かなくなった。そしておそらくはいく事が出来なかった。私の頭の中、真ん中辺りで何かが閉ざされていく感覚がそれを確信させていた。一抹の切なさのようなものを感じないではなかったが結婚と出産とはその空虚感を埋めるに十分な大きさだった。
今となっては私の本質ぐらい、この内向的で負け犬根性な性格ぐらい妻はとっくに見抜いている。それどころかそういった私を引き出すことに喜びさえ感じているようでもあった。
中でもあのスキー教室の話は彼女のお気に入りだった。
「スキーを教えてほしい」
という名目で彼女を誘うにしてもあまり下手過ぎたのではカッコが悪い。あの頃すでにいい年齢だった私が若い者に交じってスキー教室で転げまわったことはその心境を考えると自分でも可笑しく、いつも話しながら自分で吹き出してしまう。
気負いが無くなったというのだろうか、随分と楽になったものだ。妻は私の全てを受け入れてくれるし私は活動的な自分を演技し続けながらも深い安堵の中にいた。
そんな中、その日がやって来た。
いつも通りメールをチェックしようとパソコンを起ち上げた。すると一つのメールに目が留まった。そこには件名に
「あなたへ」
と書かれてある。よく見るとここと同じアドレスから送信されているではないか。
「こんなウィルスは聞いた事もない」
そう思いながらも怖いもの見たさだろうか、殆ど何の躊躇もなく私はメールを開いてしまった。
あなたへ
あなたがこれを読んでいるという事はあれから十年の歳月が経ちましたね。きっと驚くわ。わたしルカです。
あなたが最後にそちらへ戻った日、わたしにはもう二度と逢えないという予感がありました。
十年前の今日、あなたは今パソコンデスクの前で椅子に座りうたた寝をしています。そのあなたの体を借りて今私はメールを書いています。あなたと過ごした“とき”がとても素敵だった事、それを伝えたくて。
ありがとう
ルカより
愕然とした。十年前からの日付指定のメールだった。
今ではあの日々の出来事は私の精神の病からくる一時的な錯覚として解決していた。発作のようなものとも考えていた。しかしこれは一体・・・いや待て。これ自体、自身が病んでいた痕跡そのものではないだろうか。だって自分であれば自分宛てにここからメールが送れる。いや待てよ・・・いやしかし・・・。
軽くマウスに添えていた手のひらに汗が滲んでいる。
「ルカさんって、だあれ?」
その時私はモニター越しに写る妻の顔を見た。
心臓が飛び出そうとはまさにこのことか。まるで本当に飛び出ようとしたかの様に喉の奥がつまり息が苦しい。私は反射的に手に力が入りマウスをすっ飛ばしてしまった。ディスプレイではマウスポインターがあらぬ場所を指し示している。私は出来るだけ時間をかけてゆっくりとマウスを拾い上げるとその間に冷静さを取り戻そうと高速で頭を回転させた。
「ほら、よく見てごらんよ。ここと同じアドレスからの送信だ。きっと十年前の僕自身が自分に宛てたいたずらだよ。覚えてないけどね」
我ながらうまい事を言ったと思った。ある意味正解だとも。しかし妻はまるで聞いていなかったかの様にこう続けた。
「ルカさんて方がいたからあの子にルカと名付けたのね」
今度は私のこの心臓は飛び出ようとはしなかったが代わりに鷲づかみにされた様だ。喉ではなく胸が苦しい。
「ああ、少し思い出してきた。ルカの名が閃いた時に頭に浮かんだ何らかのストーリーだな」
そう言って私は彼女が淹れてくれたコーヒーを妻が手にした盆の上から取ろうとした。すると彼女は一歩後ろへ下がり
「その一生懸命さがあやしい」
と言った。
私は嘘が上手であるという事をこの人生においてたまに感じていた。たまにだ。 そして今日という日は格別に上出来だったと思う。それなのに妻は、妻には通用しなかった。
私はもう一度彼女の手にした盆の上からコーヒーの入ったカップを取ろうと手を伸ばしてみたが彼女はそのまま部屋から出て行ってしまった。
「おいエミ!ちょっと。エミさん?」
妻は盆を手にしたまま家の中で逃げ続け、私はじゃれる様に追いかけた。久しぶりのじゃれ合いに私は多少なりとも興奮していた。だが、ようやく捕まえた彼女の顔にははっきりと懐疑心が感じられた。私は何も気づかない素振りを続け妻にキスをしようとしたが彼女は顔を背けてそれを拒んだ。
私は仕方なくコーヒーだけは頂いたが既に半分ほどが盆とソーサーの上にこぼれていたし、もうとっくに冷めていた。
私と妻とはもう長い事ご無沙汰だったがそれでも私たち夫婦は一つのベッドに寝ていた。
あんな事があったせいだろう、私は叶う事ならもう一度ルカに逢いたいと思った。あれらの日々やあのメールが私自身の奇行であり妄想であったとしてもとにかく今日だけはあの日に戻りたかった。そんな風に考えながら眠りに就こうとした時、隣で眠る妻の小さな背中が目に留まった。
壁の方を向いて眠るエミの肩が小刻みに震えている。寒いのかと思い毛布を引き上げようとした時、妻が泣いているのを知った。
「どうして泣くの?」
「きっとルカさんはこの家からメールしたんだわ」
「君はまだそんな事を・・。十年前と言えば僕らはもう結婚していたじゃないか。そんな事もう忘れてくれよ」
「いいわ忘れてあげる。その代わりもう二度と“あちら側”には行かないで」
今日という日は何度妻にぎくりとさせられるのだろう。元々鋭い感性の女性ではあるがまるで何かを知っているかのような事ばかりを言う。
「あちら側って何」
「あのメールに書いてあったわ。あなたが最後にそちらへ戻った日って」
ああ、なんだ。そういう事か。
「ああ、なんだ。そういう事か。自分でもあのメールの意味はわからないけど君がそう言うのならそうするよ。もうあちらへは行かない」
私はそう言いその日久しぶりに妻を抱いた。
私にとってルカという存在はエミと出会うためのステップだったとそう考えていた。ルカは私の潜在意識が創り出した道標のようなものであり妻のエミは言わばルカと同一であり終着点となる存在であった。
ごまかしの様な今夜のこの行為にエミは以前と変わらぬしなやかさで私に応じてくれた。だが私は戸惑いを感じていた。年甲斐もなく高揚する自分を妻は以前と変わらぬ繊細さで導いてくれる。だが何かが違う。
その夜私はエミの中にルカを感じていた。
どうした事だろう?その日以来私は度々妻を求めてしまう。その都度妻はルカと同じあの上目遣いで私を見つめ非難めいた目線を投げかけた。だが決して拒絶を意味してはいなかった。そういった意味においてもあの戯れがちなルカと同じであった。
よそってくれた料理を差し出す妻の手を握ろうとした時、その様を娘に見られてしまった事がある。娘のルカは
「やーらし」
と言ってピューと自室に逃げ込んでしまったがその目もまた上目遣いにいたずらっぽく父の私をからかった。きっと名前がいけなかったのだろう。
そんなある晩の事、エミは言った。
「ねえ聞いて」
「ん?」
「私ルカよ」
私は少々苛立ちながら言った。
「きみはまだそんな事を・・」
「いいから聞いて」
エミは続けた。
「あなたをからかうのがおかしくって・・。でも、もうそろそろ本当の事を言わなくっちゃ」
「何の事?」
「私あのメールが届いた日、キッチンにいてあなたのコーヒーを淹れていたの。覚えてる?」
「ああ、たぶんそうだったね」
「きっとあなたがあのメールを開いた頃だと思う。不思議な感覚だったわ。それはなんていうか頭の真ん中あたりで蕾が開くように広がって・・。そしてその中には女性の姿をした一つの概念の様なものがあったわ。私にそっくりな」
私は既に動揺を隠せてはいなかったに違いない。重ね合わせたエミの体から自分自身の胸の鼓動を感じていた。
「それはゆっくりと私の中に浸透していき芯にいくほど赤と青とが混じり合ったその花は青く赤く紫に染まり先に行くほど真っ白だった。そしてそれは再び蕾に戻る様に閉じてやがて消えたの」
「・・・・・」
そんな筈はない。あのことが・・・そんな筈は。
「その瞬間私すべてを理解したわ。あなたがいつも遠い目をしていたあの頃の事も。私、嫌な気はしなかったのよ。自分が渇望しても探してもよくわからなかった、まるでどこかに置き忘れた自分自身が向こうからやってきた様な気分だった。虚無感みたいな言葉があるとすればまさにそれが埋められていくような気分だったの」
私は彼女の肩に添えていた手をシーツの上に移動させ気づかれない様に汗をぬぐっていた。最早何かを観念したいという気持ちでいっぱいだったがそれでも私はしらを切った。こんな話に少しでも乗じてしまえば
「ほら、やっぱりルカさんはいたのね」
と、こうなるに決まっている。妻はきっと私にかまをかけているに違いない。断じて認めるわけにはいかなかった。
「じゃあ、君は今そのルカさんに乗っ取られたってわけだ」
「人の話ちゃんと聞いてる?ルカの方が私に浸透してきたのよ。だから私はあくまでもエミ」
「だったらこれからはそのルカさんにもヨロシクと伝えなきゃね」
私はそう言って半ば強引に妻を抱きしめた。早くこの話を終わらせたかった。しかしエミは話をやめてはくれなかった。
「ねえ聞いて」
私は少々うんざりしながら言った。
「今度は何?」
「あなたに買って貰ったあの指輪、私本当にうれしかった」
「そりゃあ結婚したんだから指輪ぐらいは」
「違うわ。あの丘のある町の小さな宝石店で買ったあの指輪」
私は飛びのくように妻の体から上半身を跳ね除けて驚きの表情を隠せないまままじまじと妻の顔を見た。
妻の口許に小さなホクロが浮かびそしてそれはすぐに消えた。
「あの指輪の青い宝石に夕日の赤い光が差し込んでとても綺麗だったわ」
涙がとまらなかった。子供のように顔を歪めて泣いてしまう自分を止めることが出来なかった。私の濁った瞳からこぼれ出る大粒の水滴はやがて妻の肩を伝いシーツを濡らした。
「ルカ・・なのか?」
「そう言ったじゃない」
私はいつしか妻の胸の中、漏れ出る嗚咽を何度も噛み殺しながらそしていつまでもいつまでも泣き続けた。
了
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