青い宝石 3
通いつけのジムにはいつも見かける男がいた。彼は鍛え上げられ均整の取れた肉体でありながらもボディービルダーのようなそれではない。眉一つ動かすことなく涼しい顔でベンチプレスに取り組む彼の姿はクールそのものであり男の私から見ても単純に美しかった。
ある日私はその彼にクロストレーナーの使い方を聞こうと話しかけた。すると彼は
「いつもお会いしますね」
と言った。彼は珍しく鍛錬の手を止め私に向き直った。私は自分で話しかけておきながら彼のまっすぐな視線にどぎまぎしてしまったが彼はクロストレーナーの説明などはそこそこに話し始めた。
「私の地区に小さなバレーボールのチームがあるんですが良かったら一緒にやりませんか?」
彼は名を松原といった。
私は松原の言うバレーボールのチームにゲストとして参加したが、初日にいきなりこんな事を言われた。
「なんていうか・・言い訳考えて動いてますよね」
図星だった。年のせいか体が思うように動かなかったがそれ以前に今言われた事が恥ずかしかった。本来なら一回りも年下の男にこんなにずけずけと言われてしまってはカッとなる場面だったが何故だか彼に言われると素直になれる。
そう、たぶん私は言い訳を考えて生きてきた。
「俺も最近気付いたんだ。俺もそう思う」
「次からはサーブの時はジャンピングサーブして下さい。もっとこう狡猾に」
何一つ断る事ができなかった。
彼は「狡猾に」と表現したが私にはわかっていた。私には負けん気というものがまるで無かった。人間が生きるに必要な原動力、勝ちたいとか言い負かしたいとかモテたいとか有名になりたいとか、私はそんなことの反対側にいた。最初からこうではなかったはずだ。だがいつのまにか場の中心になったり、まして人の上に立ったり、とにかく目立つことを避けて生きてきた。
松原は次々と私にオーバーアクションを求め続け、右打ちの私を考慮し常に右前方の対角線上から長いトスをあげた。走りこむ彼に答えようと私は必死に高く飛びあがり体を大きくのけぞらせながら派手なアタックを打ち込んだ。やがて私はポジション或いは立ち位置なども気にせず「こっちだ松原!」などと叫びながらついには左手の甲で相手チームにボールを叩き込んだ。
年の功だろうか球を外したってそんなには恥ずかしくなかったし実を言うと勝ち負けさえどうでもよかった。只々次の時も跳びたかった。出来るだけ高く。
様になるにしたがい飛び上がるのが楽しくて仕方がなくなった。いつしか私たちはこの小さなチームのツートップと呼ばれていた。
そんな私と松原だったが実は彼、松原は鬱屈した人生を過ごしていた。どうしても女性と話すことが出来ないそうだ。人には
「意識し過ぎなんだよ」
と言われるし自分でもそんなことはわかっていると言う。だがどんなにわかっていても何故だか女性の前では声が出なくなってしまう。今時めずらしいよな。そのせいでせっかく好感触な女性がいても結局は離れて行ってしまうらしい。
彼は未だにプロの女性しか相手にしたことがなかった。
チームの打ち上げが終わると二次会は私と松原の二人だけで飲む、それが定番となっていた。その日の勝利にはしゃぐ私の言葉を遮るように彼は言った。
「頼みがあるんすよ先輩」
彼に先輩と呼ばれることは初めてではなかったがどうにもむずがゆい。私はつとめて平静さを装いながら言った。
「金ならないぞ」
「違いますよ。いやあの、女の子とその何つーか、どうしたら・・・」
解っていた。彼は女性と口を利かない。彼の唯一の弱点と言ってもよかった。ホモではないかと疑ってみたこともあるがそうではない。彼は女性に対してのみ極端に奥手なのだ。
「お前女と口利かないもんな。あれじゃないか?最初の頃俺言われたよな。言い訳考えて動いてるってやつ」
「俺そんな事言いました?」
「おいおい、あれ結構刺さったんだが」
「すいません。で、どうしたらいいと思います?」
「慣れしかないんじゃないかな」
「冷たくないっすか?」
「冷たいって・・俺にどうしろっての」
「手っ取り早く誰か紹介してくれるとかー。そうすればきっと慣れるんじゃないのかなーみたいな」
酒のせいかあのクールな松原がおどけている。挙動不審と言っていい。ちょっとバカっぽい。少し言い過ぎた。
「紹介出来る女子とかいないっての」
「でも先輩わりとこなれてるじゃないですか」
見ると彼は斜向かいのボックスにいる二人組の女性を横目でちらちらと見ている。
「おいおい、俺今何歳だと思ってるんだよ」
そうは言ったが今日の松原ならいけるかもしれない。それに私は・・彼に頼られたことや初めて彼の優位に立てたことに有頂天になっていた。
その後の事はよく覚えていないが私は彼女たちをナンパした。
渾身のナンパだった。と思う。きっと彼女たちには
「おじさん頑張っちゃってる」
と思われていたに違いない。そうは思っていたがそれでも私は強引に彼女たちの隣に座ってからは僅か十数秒足らずで二人を笑わせていた。
おかげで彼女たちと合流してからは相変わらず無口な松原の通訳に追われたが彼は短い言葉ならちょっとずつ発した。
こんな不器用で朴訥な男が、つまりは誠実な男が女にはウケないという事実が実を言うと不思議でならない。
“私の様な男ではなく松原の様な男を好きになれ、日本の女子よ”
今でも本気でそう思う。
彼女たちがトイレに立ったすきに彼に聞いてみた。
「どっちがいい?」
「髪長いほう」
「はあ?どう考えても短いほうがかわいいだろうが。目、大丈夫か?」
「そすか?」
どうやら本気らしい。まあ人それぞれか。
「長いほうはミキちゃんだから名前ぐらい覚えておこうな」
見ているとどうやらお友達さんよりもミキちゃんの方が松原に対して寛容でやさしかった。
私は松原に
「今日ここで出会う女と本気になるなよ」
などと偉そうなことを口にしたが、私は実際に松原の事が大事だったし変な女に持っていかれたくはなかったのだ。だが彼は今でもその時の彼女、ミキちゃんと付き合っている。
徐々に健康のようなものを取り戻す中、私の体は活力で満たされ始めた。或いは生きるための自信のようなものが再起した。
思えば私の人間嫌いも不健康に由来するものだったのかもしれない。いざそうなってくると人と女性と接したくてたまらないでいる自分に驚いた。こんなことは十数年ぶりの出来事だった。
私は現実世界を改めて実感し満喫していたが同時に現実逃避を続けたていた。私はルカに本当の意味での理解という救いを求め続け、そして彼女は常に私を受け入れ続けてくれた。
そんな歪んだ日々の中、わたし達は出会った。
ある程度まとまった仕事が入った時の事、クライアントの編集者であり営業マンでもある多田という男に随行するかたちでやってきた彼女は、まるで学生の社会見学のようでもあったが彼女の目線はしっかりと私たちの仕事を見据え多くの質問を投げかけた。
データーのやりとり等はどのツールを基準にしているのか、お互いのモニターの色調整をどう引き合わせているのか、私だけではなく担当の多田君さえも言葉につまる勢いだった。
「多田さん、今日お会いするデザイナーの人ってこれの人ですか?」
「ん?ああ、そうそう」
エミがかざした雑誌の挿絵を見ながら多田は答えた。
「そうだけど何で?」
「一緒について行っていいですか?」
エミはなぜだかこの片桐というデザイナーが描くキャラクターたちが好きだった。CGで作られているのに綺麗過ぎず何というか泥臭い。フォトリアルという事ともちょっと違う。
下手なだけかもしれないが初めからこういう感性の人なんじゃないかと感じていた。
「いいけど片桐さんっておっさんだよ」
「そんな事どうでもいいです」
やがて彼女は私の担当となり定期的に仕事の進捗具合を探りに私の家にやって来た。私は彼女の期待する以上の仕事を予めこなし、代わりに多くの時間を彼女との世間話に費やした。
それは能動的になりつつある自身の人間的な成果であったが一義的には重要な理由が他にあった。
彼女はルカにそっくりだったのだ。
彼女の名はエミといった。ルカに似ていると思うと果てしなく似ている気がする。似ているどころではない。私は妄想と現実との境を必死で区別した。
『今目の前にいる女性はルカではない。だから取敢えず重要な事はまず第一に、えーっとそう。とにかく触ってはいかん』
そんな感じだ。
私は彼女の、つまりエミの声から
『ああそうだ、ルカの声は確かこうだった』
とか、彼女の動きからルカの仕草を再認識したりもした。
特にエミの手首から先のまるでそれ自体がものを語るかのような仕草の中に私はルカと同じものを感じた。しなるようなあの動き。見ているだけでも悦にいってしまう。あのしなやかな手に触れてみたい。違うものと言えばエミの口許にはあの小さなホクロが無い事ぐらいだった。
ただエミは終始明るく活発だったが何故だか彼女は時折遠い目をしていた。
エミは中堅の映像制作の全般に携わる会社に勤務している。しかしゲームやテレビメディアといった派手で花形な部署を好まず紙媒体のポスターなどを扱うそんな今の部署が好きだった。そもそもゲームやゲームキャラクター、ゲームをする人などその全てが嫌いだった様だし合成とか修正とかそんな仕事内容もあまり好きではなかったらしい。
本気で言っちゃうとエミは“芸術”とかいうやつに憧れていたが“芸術”と言ってしまった時のエミの顔はこちらが心配するほど恥ずかしそうに見えた。
エミは戸惑っていた。
何だろうあのおっさん。ちょっとパソコンが得意そうなだけの引きこもりじゃないの。それに会った途端あんなに驚いて。ちょっと興味があって自分から先輩について行ったけど何あれ?広いマンションにたった一人で住んで。なのに何故だか隅々まで掃除が行き届いていて・・・きっと潔癖症なんだわ。
トイレなんか男の一人暮らしとは思えないぐらいに清潔だったし、あの男ならトイレに女性用の汚物入れだって置きかねないわ。さすがにそれはないか・・。
それに私見てしまった。冷蔵庫の脇に大量の焼酎の空のペットボトル。全部ラベルが丁寧に剥がされていつでも捨てられる状態だった。資源ごみの日に。
だからつまりあの男なら毎週決まった曜日にちゃんと資源ごみに出しているはずだわ。なのになんなのあの量。きっとアル中なんだわ。それにどことなく煙草臭かったし。それにそうよ、お茶なんか注ぐ前に湯呑を温めていたわ。紳士ぶってるわけ? ちょっと端正な顔つきだから最初は興味もあったけどあんな神経質そうな男は嫌。
「袋ご利用になります?」
エミはスーパーのレジ前でハッとして我に返った。そうだ買い物の途中だった。
「え、あ、あります」
これまで我を失うなどということはいっさいなかったつもりのエミにとって、今の店員とのやりとりは寧ろ不思議な出来事だった。だがもっと驚いたことには買い物かごにはたまにしか飲まないはずの小さな梅酒の缶が二つ入っていた。
あの年になっても独身だなんてきっと男として欠陥があるんだわ。それにあの遠い目つき、なんだか気味が悪い。まるで節穴みたい。あは、丁度いい言葉を思い出した。胡乱な節穴。あの男の眼は胡乱な節穴だわ。
「片桐さんが作りだすキャラクターたちは独特で私好きです」
「ああ・・人間臭いとか言われますね」
「誰かモデルとかいるんですか?」
「モデルなんていませんよ。今となっては全てが過去データの流用とかです。それもアートをしたい・・なんていう若い頃の名残かな。それともあなたモデルになってくれるの?」
その晩、エミは梅酒を飲みながらテレビを見ていたが、それがニュースなのかドラマなのかさえもうわからなかった。
「なんかあの人嫌い。どことなくエッチだしとにかく嫌。モデルですって?バカじゃないの?モデルって脱ぐのかしら。ばっ、何言ってるの私」
その夜エミは布団に潜り込みながら頭の中で同じことを繰り返していた。
「脱ぐのかしら・・」
私はバレーボールの翌日、松原と例のミキちゃんを誘って大きめのワンボックスのレンタカーを借りキャンプに出掛けた。
「いいとこあるんだよ。東京なのにド田舎だ。キャンプ場だってあるんだけどもっといいところさ。プライベートビーチみたいな川っぷちにテントが張れるスペースがある」
私は夏にはアウトドアを趣味として殊更に活動的な男を演じ始めていた。
「先輩、俺が言うのもなんだけど彼女とかいないんすか?」
「今日が予行演習みたいなもんだな」
事実だった。あのエミの事が念頭にあった。これは人生最後のチャンスに違いない、そう思っていた。
「君らはいざとなったら車で寝るといい。蚊が多いからな」
そんな事を言いながら私はテントの張り具合や薪の点火剤をいたずらに調整した。 そうして三人で川釣りを楽しんだ。最後には釣り竿をたたみ毛ばりを丁寧にケースに収めたが蚊にやられて遂に私も車の中に逃げ込んだ。
我々三人が寝入る前、ミキちゃんが言った。
「片桐さん一度聞いてみたかったの。怒らないでね。ユカじゃだめだったの?彼女結構綺麗よ」
あの居酒屋で知り合ったミキちゃんのお友達のことだ。
「そういうことじゃないんだ。それに年がダブルスコアに近いぜ」
雪国育ちであるエミに合わせ私はスキーを覚えた。密かにスキー教室に通ってから雪山デートに誘った。
私はついに車を買ってしまった。もしも次に車を買う事があればシボレーのコルベットだったはずだが以外にも私が購入したのは日産キャラバン、ワンボックスの大衆車だった。これなら板も積めるし必要なら広々とした車内で寝ることだって出来る。
現実世界で過ごす時間が一週間、二週間と伸びていき私はルカに逢う頻度が激減した。
未だ尚且つ逃避行を求める自分が許せなかったし何よりも取り戻しつつある正気のようなものを失いたくはなかった。
エミと私とは結婚に向かいつつあった。
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